お遍路〜魂の旅の段階  Spirit

 

歩く曼荼羅としての四国遍路

ティム・マクリーン

 

十年以上前、初めて四国八十八箇所に足を踏み入れてから、ここ数年何度か遍路に出かけ、昨年で全行程を2回歩き通した。それは私の「心の道」を見つけるための助けとなっており、自分が歩むいかなる道も遍路道の延長のような気がしている。一瞬一瞬、一歩一歩歩むごとに、人生がいかに驚異的で神秘に満ち、自由であるかを再発見し、自分が孤独な存在ではなく、すべてのものが依存し合う、慈悲にあふれた宇宙の一部であると気づく---それは巡礼によってこそ、可能になる。

 

四国のお遍路は、人生における魂の旅の象徴的表現である。それは生けるマンダラともいえる。多くの宗教的伝統において、マンダラは宗教的領域、あるいは私たちが生きる日常的リアリティの基盤となる宗教的次元の構造を象徴的に表している。それは、深い宗教的洞察ないし啓示の源ともなり得る。また心の表象的性質を理解する方法として、西洋の心理学にすら、取り入れられてきた。だが、四国遍路がユニークであるのは、その象徴的表現のみならず、それが実在する場所であり、人生の生けるマンダラを直接的に体験できるということなのである。

 

四国における巡礼の伝統は非常に古く、先史時代にもさかのぼる。しかし現在の八十八箇所巡りは、空海(弘法大師774-835)によって始められたとされる。空海は四国に生まれ、仏教に帰依してからは、山中での修行のために故郷に戻ることがしばしばあった。遍路道は、彼が修行中に歩んだ道であると言われている。

 

遥か昔から現在に至るまで、四国遍路は、真摯に道を求める者すべて、その背景や社会的地位、宗教を問わず、受け入れてきた。これはいかなる者にも平等な場としての巡礼の重要な特徴である。巡礼者となるためには、僧侶であったり、特定の宗教の信者である必要はない。実は、巡礼者となるために必要なことはふたつだけであると言われる。真剣に行きたいと思うこと。そして巡礼の創始者たる弘法大師との「ご縁」である。四国遍路に出かける人の動機はさまざまだが、人生上の転機にさしかかり、生きることのより深い意味と方向性を模索していることが多い。

 


■ 円環の神秘

 

四国八十八箇所は、四国全体を巡る約千四百キロの円環構造になっている。通常聖地巡礼の場合、ある目的地点まで旅をし、着いた時点で信仰の対象を拝み、無事旅が終わったことを感謝して帰るが、この四国巡礼はゴールがないという点でユニークである。マンダラのように、それは基本的には円であり(ら旋であるという人もいる)、始まりと終わりをもたないのである。札所の順番はあるが、どこから始めてもかまわない。重要なことは、すべて巡った上で、自分が始めた場所に戻ってくることである。円を完成しなければならないのだ。

 

ユング派心理学者であるフォン・フランツは、次のように言っている。

円(ないしは球)は、セルフ(=超越的自己)のシンボルである。それは人と自然(宇宙)、全体との関係をふくむ、心のあらゆる側面にわたる全体性を表現している。円のシンボルが原始的な太陽信仰、現代の宗教、神話、夢、チベット僧によって描かれたマンダラ、さらには都市計画や、初期の天文学者の考えた、地球を中心とした天体構造などのいずれに見いだされるにせよ、それは常に人生のもっとも重要な局面、すなわち、究極の全体性を指し示している。 1)

 


■ 4つの道場

 

現在の第一番の札所は、徳島県の吉野川河口近くに位置している。和歌山県の高野山から四国に渡る巡礼者がそこから始めたことから、その伝統が定着したという。さらに時代をさかのぼると、第一番のお寺は弘法大師の生誕地の近く、香川県にあった。しかしいかなる時代にも、巡礼者たちはしごくもっともな方法を選択した。すなわち四国に住んでいたなら、自分の家に近いところから始め、他の地域に住んでいたなら、四国に到着した地点から始めたのである。

 

どこから巡礼を始めるにせよ、旅は4つの段階に分かれる。四国の地図では、この4つの段階は、4つの方向および4つの各県に代表される。徳島県は1番から23番までの札所で、「発心の道場」と呼ばれる。それは初心の無垢な心、発願の純粋さを象徴する。高知県は24番から39番までで、「修行の道場」と呼ばれる。札所の数は少なく、札所と札所の間の距離が長い。人里離れた寺まで行くのに、3日がかりで歩いていかなくてはならないことがある。「修行の道場」は試練であり、それを通過するには勇気と忍耐力が必要である。その次は「菩提の道場」と呼ばれる愛媛県であり、40番から66番までである。「菩提」とはサンスクリット語に由来し、「目覚め」を意味する。遍路のちょうど半ばに当たる44番が位置するのは、この道場においてである。またこの段階において、道の途上における出会いから受ける教えや求道の深さ、意味に目覚め始める。香川県は「涅槃の道場」であり、67番から88番までを含む。そのうち、第75番は、弘法大師の生誕地である。この道場は超越、完了、全体性を象徴する。


■ 魂の4段階

 

これら4つの段階の心理学的・宗教的意味合いは、四国遍路にとどまらない。それは、人類史上のさまざまな文化や時代において見られる。自己成長とスピリチュアルな発達のパターンとしての普遍的意味合いをもつのである。そのひとつの例として、ネイティブ・アメリカンのラコタ族その他の「メディスン・ホィール」ないしは、「生命の輪」というものが挙げられる。

 

これはマンダラ様の円形の図であり、4つの部分ないし段階に分かれており、それぞれが人間の精神的発達の各段階を表している。子供時代の無邪気さと無知。思春期を通じて「いのちの道」を歩むために必要な勇気、力、忍耐力。大人になって宇宙の働きに目を開かされ、得られる知恵や知識、責任。そして最終段階では円が完結し、あらゆるものがひとつとなり、慈悲、赦し、平和、癒しが訪れる。

 

もうひとつの例としては、中世ヨーロッパの「運命の輪」が挙げられる。それもまた、人生の旅の4つの段階を示している。回る運命の輪の中心、軸に当たる部分は、不動の平和と慈悲の場所、聖母マリアのハートである。

 

このように、人生の未知のチャレンジに直面し、通過することになる4つの段階には、数多くの例がある。スタニスラフ・グロフによれば、こうした4つの段階の心理的基盤は、胎児が誕生するときに通過する段階にさかのぼるという。近年確立されつつある誕生心理学という分野の研究結果によれば、胎児は誕生以前から意識をもっており、母親の心理的・情緒的状態と誕生の身体的プロセスが、子供の心理発達に影響を及ぼすことがますます明らかになっている。

 

グロフは、胎児が生まれてくるときに体験する、「分娩前後のマトリックス」という4つの心理的段階があることを明らかにしている。これは、巡礼の4つの段階や他の伝統で描かれている段階と不思議に類似している。

 

第一の段階は、胎児が無重力状態で平和な子宮の中に浮いている状態で、母親との一体感を感じている。第二の段階は、強烈な陣痛が始まり、子宮の平和が破られ、ショックと苦しさに彩られる。破水が起き、胎児が初めて重力を感じる。この段階ではまだ子宮口は開いておらず、胎児は「出口なし」の状態に囚われる。第三の段階では、子宮口が開き、胎児が産道を通過し始める。胎児が陣痛のリズムと共に動きを開始すると、エネルギーの方向が明らかになり、確実に出口と解放に向かってゆく。第4の段階は、産みのプロセスそのものである。この段階は「死と再生」とも言えるもので、へその緒によってつながる、水棲の生きものとしての胎児に死が訪れ、独立した、肺呼吸をする存在として生まれ変わるのである。赤ん坊は再び母親との絆を結ぶが、それは外界におけるまったく新しい次元の中で起きる。

 

四国八十八箇所についての話から、だいぶ飛躍してしまったように思われるかもしれない。だが、いかなる人間も誕生のプロセスを通過してきている。それは、未知の世界へ向かう、最初の旅なのだ。この旅が私たちの意識に深いパターンを刻み、それが大人になって、より大きなリアリティとの一体感や結びつきへと向かう願望に翻案されてもおかしくない。この宗教的探求へと向かう根源的衝動は、巡礼という普遍的な人類の実践を説明する重要な要素であると考えなければならないだろう。<お遍路旅日記から> (人生と同じように)遍路道においては、次の曲がり角が何をもたらすか、知る由もない。しかし私たちに受け取る用意があれば、それは常に気づきや教え、癒しの機会をもたらしてくれる。たとえば開発されていない自然の中を歩くなど、すばらしい癒しの経験をした後にかぎって、ダンプカーやブルドーザーの行き交う中、排気ガスにまみれながらも落ち着いた心をどこまで保つことができるかというチャレンジになる。そして状況が悪くなってきたなと考えたとたんに、バランスを取るように何か良いことが起きたりする。そのためには、耳と眼と感じる心がしっかりと開いている必要がある。私たちは、道の途上における出会いによりたえず励まされる。

 

1995年10月30日:足摺岬の突端にある38番札所、金剛福寺にお参りした後、私が先達を務めるお遍路のグループ(8名)は北を目指し、深い森と透き通った川の水を目にしながら、圧倒的に美しい秋の風景の中、狭い山道を進む。途中、道路工事をしているところに差しかかった。そこにはガードマンが何人かいたが、そのうち一人はよく見ると年配の女性で、交通整理をしていた。私たちが近づくにつれ、彼女は私の目を直接のぞき込み、「あなたは外国人ですねえ。どこから来たの?」とたずねた。私は、「アメリカです」と答えた。彼女は私の背後にいる人たちを注意深く見やり、「あなたは日本の人たちを連れて歩いているのねえ。あなたがたの目的は何?」とさらにたずねた。彼女の聞き方は非難がましくなく、とても率直なもので、ストレートに私の胸に入ってきた。「四国の札所のお参りをして、弘法大師の道をたどっています。」と簡単に答えると、彼女はすぐさま顔を輝かせ、そっと言った。「皆さんがされていることは、とてもいいことです。この道を進むと、あなた方の人生の大輪の花が咲きます。決まっていますから。」静かな自信に満ちあふれた、彼女の真摯な態度に心打たれ、私たちのうち何人もが目に涙した。その後の旅の間、彼女の言った、「あなた方の人生の大輪の花が咲きます。決まっていますから。」という言葉が私たちの合言葉となった。

 


■ 同行二人

 

現代というマスコミュニケーション、 消費主義、増大する疎外感の状況において、四国遍路は、大地の上を歩くという、人間にとって本質的な経験にわれわれをいざなっている。お遍路は、われわれが未知なるものに心を開き、生命の神秘に対して敬意を払うことを教えてくれるのだ。また「安心立命」の境地は、物質的なものが保証するのではないことをあらためて気づかせてくれる。道の途上、最初は過ちや悲劇のように思えるものも、たんなる偶然ではなく、善悪の二元論を超えた真実を発見する機会であることも。

 

いかなる宗教的体系やシンボルにおいても、その真実の核心は、個々人の心の中に存在する。四国遍路にとり、巡礼の核心は同行二人という考え方にある。マンダラの中心は、弘法大師、すなわち聖なるものと共に歩む巡礼者自身である。巡礼者の歩む一歩一歩は、弘法大師と共にある。なぜなら、大師はいかなる姿においても現われ、旅の途中で出会うあらゆるものの中に見いだされると信じられているからである。


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